奢ってもらうということに異常なほど執着する人がいます。
それほど仲良くない相手であっても奢ってもらえるというと勝手についてくる人もいます。
私はこのような人々のことを勝手に「タダメシ依存症」と呼んでいるのですが本当に何らかのパーソナリティー障害なのかもしれません。
奢りなのに安いメニューを食べたことをずっと後悔する
けっこう前ですが若い人たちと食事をする機会がありました。
私が一番年上だったので全額支払いました。といっても1万円もしませんでしたが。
その時ある一人が「奢りならもっと高いものを食べれば良かった」と言いました。
この発言くらいなら冗談のうちでしょう。私も「育ちの良いタイプではないな」くらいにしか思いませんでした。
しかし後日会った時もまた「あのときもっと高いメニューを注文すれば良かった」と言ったのです。
そこにいた他の人の話では私のいない時もそう言っていたそうです。
その店のメニューは安いものと高いものの差なんてせいぜい数百円です。
その程度の金額がいつまでも気になるというのは尋常な精神の持ち主ではありません。
しかし珍しいタイプとも言えません。
「奢ってもらえるかも」という刺激がすべての思考をストップ
別のケースですが会合が終わった後などに皆で食事でも行こうかとなることがあります。
このときも最初は断りますが奢りと分かると「やっぱり行く」という人がいます。
それほど仲が良くない人しかいないグループであってもそこについてくることもあります。
タダメシ依存症の人はそのことに対して恥ずかしいという感覚がないのです。
冗談で「儲かってる○○さんの奢りかな?」という人がいます。
これも下品な話ですが言っている本人は本気でないことのほうが多いです。
しかしタダメシ依存症の人は本気で言っているのです。
「奢ってもらえるかも」という刺激がすべての思考をストップしてしまうのです。
薬物依存症者が薬を求めるときと同じ感覚なのです。
マキャベリストの亜流か?
タダメシ依存症の人は今日明日の食べ物に困るような生活をしているわけではありません。
それなのに奢ってもらいたいという欲求は異常に強いのです。
ビジネスの世界で「目の前に儲かるチャンスがあるのに何もしないのは損しているのと同じ」と言われることがありますがこれとも違うのです。
奢ってもらってばかりでは評判を落とすので損をするからです。
そもそも好きでもない人間に奢ってもらったとしても無駄な時間を過ごすしてたかが数千円の利益しか得られません。
自分の利益のために他人を利用する人のことをマキャベリストと言いますがそれの利益が計算できないタイプなのかもしれません。
徳を積ませてくれているのか?
タダメシ依存症は誰かが得をしている時に自分も得できないことが許せないという思考も強いです。
彼らにとってはどんな調味料よりも「タダメシ」ということが最高のスパイスになるのです。
タダメシ依存症の人と付き合っていても良いことはなさそうです。
それどころか「もっといいものが食べたかった」と言い出すことさえあります。
どこかの国では奢ったほうが「徳を積ませてもらう機会をもらった」ということで感謝する文化があるそうです。
タダメシ依存症の人もそういう価値観なのでしょうか?